fbpx

株式会社佐久 専務取締役/
合同会社MMR 代表社員

佐藤 太一さん

Taiichi SATO

山全体を資源と捉えれば、
そこには多様な可能性が広がる

江戸末期から続く林家の12代目、佐藤太一さん。「南三陸杉」のブランド名で知られる良質な杉材などを生産する。一般に林業といえば衰退産業のイメージがあるが、この地域にそれは当てはまらないようだ。宮城県の木材市場が確立していることに加え、自然災害や獣害も少ない恵まれた環境。太一さんをはじめとする若い世代が活躍し、新しいことに挑戦する林業経営者も多いという。震災翌年に家業に入って10年目、「林業とは山をまるごと資源と捉えて有効利用すること」と語る太一さんに話を伺った。

物理学者を目指すも、家業を継いで林家に

つづら折りの細い山道を登っていくと、杉木立に囲まれたポケットのような空き地に出た。南三陸町志津川の中心市街地から車で15分ほど。ここは、佐藤太一さんの会社が管理する270ヘクタールの森林の一部だ。天に向かって真っ直ぐに伸びる杉。見上げると空がまぶしい。

作業服にヘルメット姿で現れた太一さんが説明してくれる。「この辺りは曽爺ちゃんが植えた杉ですね。50~60年生で“伐りどき”を迎えています」

その樹齢から想像するほど幹は太くない。丸太を見ると太いところでも直径50センチほどだろうか。南三陸の杉は地質の関係であまり太らず、そのぶん年輪が詰まって強度が増すという。古くは伊達政宗の時代から、この一帯は良質な建材の産地として知られてきた。山が海に迫り平地の少ない南三陸町は、町土の約8割が森林。水産業・農業と並び、林業は今でも町の主要産業の一角を占める。

佐藤家はこの地で代々、家業を営んできた。一族の資産を管理する株式会社佐久(さきゅう)は現在、11代目の久一郎さんが社長を、12代目となる太一さんが専務を務める。不動産、観光など複数の事業を営むが、メインは林業だ。3名の専任作業班を抱え、建材用や製紙用の丸太を出荷している。

山形大学大学院で「宇宙放射線の強度変動」という難しいテーマの研究に取り組んでいた太一さんが、家業を継ぐため宮城に戻ってきたのは、東日本大震災翌年の2012年、28歳の時だった。

「ほんとは物理学の研究者になりたかったんですよ。長男ですからいずれ継ぐつもりではいたものの、実際にはもっと先の話だと考えていました。そこへ大震災が起き、家業の再建に力を貸してほしいという父の言葉で、戻ることにしたのです」

太一さんは1年の猶予をもらい、自らの研究を完成させて博士号を取得。その後、家業に入ってからは林業を軸とした事業の再構築に手腕を発揮し、経営の要を担っている。

バイオマスを含め地産エネルギーにも挑戦

ふたたび杉の木立を見渡す。ほっそりした幹が一定の間隔できれいに並んでいる。間伐材はどうしているのですかと尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「いま流通している建材はほとんどが間伐材ですよ」

どういうことだろう。建材となるサイズまで木を大きく育てるためには適切な間引き、すなわち間伐が必要であり、その間伐材をどう有効利用するかが日本の林業の大きな課題ではなかったのか。

「それは30年前の話です。戦後の拡大造林で植えられた木はいま50年生となり、どれも“使いどき”を迎えているのです。30年前、当時20年生だった木はまだ細くて用途が限られていた。その頃、間伐材の使い道を考えようという運動が起き、間伐材の利用=山に優しいというイメージができあがったんです」

現在ではむしろ、1本の木をどれだけ有効にカスケード利用できるか(節がない上質材が取れる一番玉、二番玉・・・チップ用まで)が重要なのだそうだ。しかしそれでも、タンコロと呼ばれる端の部分や落とした枝など、どうしても木材として出荷できない部分が残る。

こうした未利用資源を活かす方法はないものか――。そう考えた佐藤さんは、木質ペレットの可能性も模索してきた。地元の若手経営者2人と一緒に2015年に立ち上げた合同会社MMRの事業がそれだ。

チップを固めて作る木質ペレットは燃焼効率がよくエコな燃料として知られ、南三陸町が掲げるバイオマス都市構想の中でも普及促進が謳われている。佐藤さんらは将来のペレットプラント建設を目指し、まずは需要拡大のための仕入れ・販売を開始した。しかし製造に関しては、採算がとれる形で品質を安定させるのが現時点では難しく、実現には至っていない。

それでも佐藤さんは、「地産エネルギー」を諦めていない。そのために山という資源を最大現に活用したいのだという。

「大震災を経験し、地域に自立したエネルギー源を持つことの大切さが身に染みました。持続可能な地域づくりはエネルギーの問題を避けて通れないのです。木質ペレット以外にも、発電を含めた地域エネルギーの形を考えたい。ただ、風力発電はイヌワシなど猛禽類との共生を考えると大規模なものは作らない方がいいし、太陽光についても山を切り拓いてパネルを並べることはあり得ません。小水力も含めて小規模分散型の方向だと思いますが、これは革命といえるくらい難しいこと。だから、結果を焦らずに取り組もうと思っています」

外との交流で成り立ってきた南三陸、
昔から二地域居住も

現代では山の資源といえば木材が主だが、昔から山はもっと多様な使われ方をしてきた、と佐藤さんは言う。実際、生物多様性をテーマとする佐藤さんの山では、下草を刈らず一緒に育てており、そこからとれる様々な素材を使った商品開発にも取り組んでいる。例を挙げれば、クロモジという香りのいい木と杉の葉を使ったルームスプレー、ペット需要に応えるマタタビなどだ。モノ以外に、林業体験プログラムなども実施している。

「木を伐るだけでなく山全体を資源として活用するのが林業だ」という佐藤さん。その際、乱獲せず、環境負荷を最小限にとどめつつ採算に合う方法を考えるのが、「難しいけれど同時に楽しいところでもある」という。これから南三陸に来て何かをやりたいという人も、新しい目で山を見ればいろいろな可能性が発見できるのではないか。

「庭木用の山取り苗木やキノコの栽培もできるし、小規模なら薪ビジネスもいいかもしれない。森をフィールドにしたアクティビティも考えられるでしょう。山主にきちんと収益還元さえすれば、いろいろ意味のあることができますよ」

そう、山で活動するには山の所有者の許可が必要だ。しかし、代々続く山主たちは外から来た人を山へ入れることに抵抗はないのだろうか。佐藤さんによれば、その心配は無用である。実は太一さん自身、生まれも育ちも仙台市。南三陸で活動を始めた当初は同級生も友人もいない、事実上ヨソモノだったのだ。地域コミュニティに受け入れてもらえるか心配はあったが、それは杞憂に終わった。

「この辺りの山主は、仙台にも家を持っていて、今でいう二地域居住を昔から続けてきた家が少なくありません。実際、佐藤家がそうでしたから。父も祖父も仙台の家から南三陸に通っていたんです。そうやって、もともと外部と交流しながら成り立ってきたのがこの町。だから、ヨソモノへの警戒感とか閉鎖的なところは全然ないですよ。馴染んでくるにつれて考え方の違いみたいなものが見えてきても、それは個性として受け取ってもらえる。ここは元々みんな個性の強い人たちばかりだから(笑)」

代を重ねられる事業のフィールド、
山は丸ごと資産

林業経営のタイムスパンは長い。5年10年ではなく半世紀、一世紀単位のビジョンが要求される。サステナビリティなどという言葉が流行る前から、まさに「持続可能であること」が自明の前提であり続けてきた。佐藤さんはそれを「代を重ねられる事業をしたい」と表現する。そのためのフィールドが、山。大津波で町のすべてが流されても最後まで残った、「ゆるがない財産」なのだ。

あらためて、太一さんの曽祖父が植えたという杉林を見上げる。この木々たちは震災後の10年間、太一さんが経営者として重ねてきた苦労の日々を、静かに見守ってきたのだろう。今年38歳になった太一さんに40代の目標を尋ねると、「もっと自分が面白いと思うことをやって、楽しむことかな」と笑った。学者を目指しただけあって、「わからないもの」に惹かれるそう。UFOなどオカルトが好きで、仕事以外の趣味の仲間もたくさんいるという。

「結局、人生いかに楽しむかだと思うんですよ。その意味でも、南三陸は楽しめるものがいっぱいあります。僕の場合は家業承継という使命がありますけど、そういう縛りがなくて何でも自由にできるなら、ここの生活はきっともっと楽しい(笑)」

この山で今度は太一さんが植えた木を、太一さんの曾孫が伐る日が来る。その間にはさらに多くの新しい挑戦が生まれるだろう。南三陸の山はそうやって豊かさをつないでゆく。

(2021年8月取材)

株式会社佐久 専務取締役/
合同会社MMR 代表社員

佐藤 太一さん

Taiichi SATO

1984年、仙台市生まれ。大学院で放射線物理学を研究し、理学博士号を取得。2012年、家業を継ぐため宮城県へ戻り、株式会社佐久(さきゅう)の専務取締役に就任。主力事業の林業では、南三陸町内に270ヘクタールの森林を管理。良質な杉材のほか、アカマツやヒノキなどを生産する。2015年10月、林業団体「南三陸森林管理協議会」の一員として宮城県初の国際森林認証(FSC®)を取得。また、「南三陸バイオマス産業都市構想」に呼応して合同会社MMRを設立、木質ペレットをはじめ、地域エネルギーの開発にも取り組む。

ライター

中川雅美

神奈川県出身。東京の外資系企業数社で20年以上、翻訳・編集・広報・コーポレートブランディングの仕事に携わったのち、2014年初から福島県へ。当時、福島第一原発事故で全町避難中だった浪江町役場の広報支援に入る。任期終了後も福島県に残り、現在は福島市を拠点にフリーのライター/コピーライター/広報アドバイザーとして活動中。