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一般社団法人南三陸YES工房 事務局長/
一般社団法人南三陸研修センター 代表理事

阿部 忠義さん

Tadayoshi ABE

モノづくりの可能性を信じ、
用意した舞台で演じる“役者”に期待

南三陸YES工房は、東日本大震災で家も仕事も失った町民のための働く場・交流の場をつくりたい、という一人の役場職員の思いから始まった。阿部忠義さん、当時53歳。アイデアマンとして知られ、個人で工房を持つほどモノづくりが好きだった。震災後、外部からの支援になかば背中を押される形でYES工房を立ち上げる。以来、文字通り寝る間を惜しんで復興・雇用創出のための事業展開を続けてきた。2020年には最新機材と大規模ワークショップ会場を備えた新工場を開設。終わらぬ挑戦の目的は、「若い人たちが活躍できるステージを作ること」と語る。

モノづくりで復興をけん引してきた
YES工房

元は中学校の教室として使われていたという、築70年近い木造2階建て。なんとも味のある外観だ。扉を開けると、リノベーションされた室内は南三陸YES工房のショップ兼作業場になっている。同工房で製作されたグッズが所狭しと並ぶ店内は、見ているだけで楽しい。人気キャラクターの「オクトパス君」は町特産のタコがモチーフ。「置くと(試験に)パス」に引っかけた合格祈願の縁起ものだ。可愛らしいまゆ細工の製品は、かつての一大産業である養蚕にちなむ。

南三陸杉を使った木工製品も数多い。目移りしながら眺めていと、「南三陸」の文字と町花のツツジ、それにタコの姿を細やかに彫り抜いたコースターやスマホスタンドが目に留まった。「これはキリコを模したデザインなんですよ」と、南三陸YES工房の事務局長、阿部忠義さんが教えてくれる。三陸沿岸部には、半紙を様々な柄に切り抜いて作る「キリコ」という神棚飾りが伝わる。それに着想を得て生まれたこの繊細な絵柄は、レーザー加工機で杉材に彫り抜かれていくという。

ショップのすぐ先にある第二工場を案内してもらった。こちらも元は中学校の体育館だったところを、阿部さんらが2019年に二つ目の作業場兼ワークショップ会場として改装したものだ。ここにはレーザーカッターはもちろんCNCルーター木材加工機などの最新のデジタル機材がそろい、細かい作業から大規模な加工まで、オーダーメイド品も含めて様々な製品を生産している。

だが、阿部さんの思いはおそらく、建物入口に掲げられた「モノづくり学習館」という看板にいちばんよく表れているのではなかろうか。先に訪れた作業場でも小規模のワークショップは提供してきたが、こちらの建物のメインホールでは、百人単位で修学旅行などの受け入れが可能という。

「教育旅行で利用できるよう、作業だけでなくレクチャーもできるようプロジェクタも音響も完備しています。初年度は2千人ほど受け入れて好評をいただきました。2020年度は3千人を見込んでいたところ、コロナ禍の影響でキャンセル。今は、オンラインでのモノづくり体験の提供で補っています。既に50件以上やりました。でもやはり、コロナが終わったら実際にここへ来てほしい。将来的には、子どもや学生さんたちが定期的に通ってきてモノづくりの楽しさを体感してくれるような場所にしたい」

地域のための工房立ち上げで、
封印したモノづくりの情熱を再び

取材中、阿部さんは「モノづくり」という言葉を何度となく使った。自身も昔からモノをつくるのが大好き。東日本大震災前は町内に個人でアトリエをつくり、工作機械を入れ、なんと陶芸のための窯もしつらえたという。

「けっこう投資してね、ワークショップもできるようなすてきな空間を作ったんですよ。でも、ほとんど使わないうちにあの津波で全部流されてしまった」

そういう阿部さんは、趣味三昧のご隠居だったわけではもちろんない。それどころか、震災当時は現役バリバリの役場職員だった。南三陸で生まれ育ち、卒業後すぐ旧志津町役場に入庁。2005年に旧歌津町と合併して南三陸町が誕生してからは南三陸町役場の職員として、長らく地域の産業振興に尽力してきた。合格祈願グッズの「オクトパス君」を2009年に発案したのも阿部さんだ。

「大震災の日はたまたま仕事で外出していたんです。そうでなければ私も防災庁舎へ避難していたはず」

その鉄骨3階建て防災庁舎は大津波にやすやすと飲み込まれ、屋上に避難した多くの町民と職員が犠牲に。阿部さんも上司を含めて多くの仲間を失った。実に住宅の7割が流失した南三陸町。山間の入谷地区だけは被害を免れ、阿部さんも自宅は無事だったが、町の惨状を前に阿部さんはモノづくりへの情熱を一切封印する。

そして震災翌月、阿部さんは入谷地区の公民館館長に異動となった。避難所の世話をしながら、家も職場も失った町民たちの働く場、交流の場をつくりたいと考えていたところ、ある大学のボランティア受け入れをきっかけに、「オクトパス君」グッズの製作再開への支援が集まることになった。阿部さんは迷った末に「自分がやるしかない」と決断。それが現在のYES工房の始まりだった。

その後も阿部さんは、産業振興課時代に培ったネットワークのみならず、震災後に生まれた大学や企業との交流を生かしながら、地域の復興と雇用創出に資する事業を立ち上げてきた。最初の4年間は公務員との二足の草鞋だったが、2015年、定年を待たずに退職する。いよいよ事業に専念するためだ。

「最初は2年で終わるつもりだったのに、応援してくれる人も従業員も一所懸命だから、やめるにやめられなくて(笑)。でも事業を継続していくとなったら、常に伸びしろのある新規事業を考えて攻めていく必要がある。生き残らなければ雇用創出も資源活用もできませんから」

「攻め」の姿勢で
役者のための舞台を作り続ける

そうやって攻め続けてきた阿部さんの最新の投資のひとつが、前述の第二工場だ。町が誇る森林資源を活用し、商品の幅を広げるだけでなく、モノづくりの技術と精神を次の世代に伝えていこうという新事業。職人の世界は言うまでもなく高齢化が深刻である。最新のデジタル工作機を入れたのは、ハンドメイドに関心がない現代の若者でも興味を持てるように、という思いから。操作を習得した人にこれらの機材を貸し出し、自由に使ってもらう「市民工房」へと発展させることも視野に入れる。

「でもやっぱり最初の基本はアナログ。コンピュータできっちり設計したものより、手のひらの粘土でつくったものの方が売れることもあるんですよ。ものづくりは決めつけたらダメです。そこから進歩しなくなるから。特に木という天然素材は、プラスチックと違って扱いが難しい。実証実験の積み重ねが大事です」

その工場では、面白いものを見せてもらった。一辺が斜めにカットされた机の天板。これを17枚つなげて直径6メートル弱の円卓をつくれば、そう、あのSDGsのマークができあがる。(SDGs=2015年の国連サミットで採択された17の「持続可能な開発目標」)

「これをどこか屋外に置いて、環境について議論するような円卓会議をやる。それをドローンで上から撮影したらカッコいいでしょう?絶対に話題になる」と聞けば、ずいぶん奇抜なアイデアのようにも感じられるが、阿部さんは意に介さない。

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「モノをつくるとき意味やコンセプトを説明しようとする人も多いけど、私はアート系だから(笑)。こちらから押し付けるんじゃなく、どう受け止めるかは相手次第。とにかく面白いと思ったことをやる。いまはそうでないと注目されません」

阿部さんの話を聞いていると、本当にこの人は公務員だったのだろうかと疑うほど「攻め」の姿勢を感じる。けれども、阿部さんは「自分がやっているのはあくまでもステージ(舞台)をつくること」だと強調する。となれば、次に必要なのはその上で演じるのは役者だ。すでに南三陸YES工房には、2019年設立の法人の代表を務める大森丈広さんをはじめ、二十代三十代のUターンIターン者が集まりつつある。

「いくらモノづくりに興味がある人でも、個人で建物をつくって機材を入れるのは無理でしょう。だから、そういう環境整備の先行投資は我々経営者がやる。若い人たちには、このステージを活かして技術を修得し、やりたいことをやってほしい」

さらに阿部さんは、ともすれば保守的な地域の人々と、外から来たチャレンジャーの間をつなぐ「通訳みたいな位置づけ」も自認している。阿部さんような「通訳」がいれば、新参の「役者」でも安心して思い切り演じることができるだろう。

そういう舞台を整えて待っていてくれる人がいる。南三陸はそういう場所なのだ。

(2021年9月取材)

一般社団法人南三陸YES工房 事務局長/
一般社団法人南三陸研修センター 代表理事

阿部 忠義さん

Tadayoshi ABE

1958年、南三陸町生まれ。1977年、志津川町(現南三陸町)役場入庁。商工観光分野を中心に長らく産業振興に携わる。東日本大震災翌月の2011年4月より入谷公民館館長。公務員としてフルタイム勤務の傍ら、外部の大学・企業の関係者などからの支援を得て、モノづくり事業(現・南三陸YES工房)、交流事業(現・南三陸研修センター)などを次々と立ち上げる。一貫して地域の人々の活躍の場づくりを目指してきた。2015年に役場を退職。2019年、一般社団法人南三陸YES工房を設立し事務局長就任。2020年には最新のデジタル工作機などを備えた第二工場を開設し、常に新たな挑戦を続けている。

ライター

中川雅美

神奈川県出身。東京の外資系企業数社で20年以上、翻訳・編集・広報・コーポレートブランディングの仕事に携わったのち、2014年初から福島県へ。当時、福島第一原発事故で全町避難中だった浪江町役場の広報支援に入る。任期終了後も福島県に残り、現在は福島市を拠点にフリーのライター/コピーライター/広報アドバイザーとして活動中。